偏差値が20違うと何故会話が成り立たないのか

偏差値が20違うと何故会話が成り立たないのか

ちまたではよく「偏差値が20違うと会話が成り立たない」と言われている。

私もこの意見におおむね賛同している。

偏差値が20ないしそれ以上乖離していると、コミュニケーションを取るのが非常にしづらくなる。

ここでの偏差値とは何も学問だけでない。商売、営業、恋愛、対人コミュニケーションetc。サラリーマン偏差値というのもあるだろう。

これら全て、偏差値が20違うと会話が成立しづらくなるのである。

ただし、どれかで一つでも偏差値70ないし80を取っていると、別の分野で偏差値30ないし40でも相手からリスペクトされて、話を聞いてくれるという性質があることには注目だ

閑話休題。

では、何故偏差値が20違うと会話が成り立たなくなるのか。

結論から先に言うと、お互いがものごとを認識する仕組みが異なるからである。

人間は「感性」「悟性」「理性」でものごとを認識している

哲学者カントはその著書『純粋理性批判』で以下のようなことを言っている。

人間は世界それ自体を客観的に認識することはできない

なぜなら、私の眼の前に広がっている世界は、すべて私の意識(主観)に現れた世界であり、それが主観の外側にある客観的世界を正確に写し取っている、という保証はどこにもないからだ。

少し難しいが、要は人間はものごとを主観でしか見ることができないということをカントは言っている。

自分の認知活動を客観的にとらえるという意味で「メタ認知」という言葉があるが、あれも客観風主観に過ぎないのである。

なるほど、確かにそうだろう。

では、私たちはものごとを主観でしか見ることができないのに、どうやってそれを他者とモノゴトを共有(共通了解)しているのか。

その答えは、人間のモノゴトを認識する仕組みが同じだからである。

カントは、人間の認識する仕組みを「感性」「悟性」「理性」の3つに分けている。

感性」とは外からの刺激を受け止める感覚的能力のことである。

悟性」とは、概念把握の能力である。量はどのくらいなのか、どのような質なのか、関係は何か、姿・形はどうなっているか、この悟性で判断している。

理性」とは、推理の能力である。

偏差値が20違うとものごとを認識する仕組みが異なる

ここまでの話をまとめよう。

カントは、人間は主観でしかものごとを見ることが出来なくても、 人間の認識する仕組みが同じだがら、 ものごとを他者と共有することができると言った。

その人間の認識する仕組みとは「感性」「悟性」「理性」の3つである。

そして、ここからが本題だ。

何故偏差値が20違うと会話が成り立たなくなるのか 。

それは、偏差値が20違うと「悟性」と「理性」の能力の隔たりが非常に大きくなるからである。

もう一度復習しよう。「悟性」とは概念の把握能力である。これには、語彙力の多寡が非常に関係してくる。

語彙力が少ない人は語彙の少なさ分だけ世界を分節することが出来ず、逆に語彙力が多い人は世界をより細かく見ることが出来る

「理性」も同様で、推理の能力には知識量や思考力などが必要であり、これらが異なると推理した先の答えも違ってくるのだ。

「悟性」と「理性」の能力に隔たりが生じた結果、見えている世界が異なるという状態が起こるのだ。

以前、養老孟子氏の『バカの壁』という著書が流行したが、養老孟子氏のバカの壁とはまさに 「悟性」と「理性」の能力の隔たりの結果、見えている世界が異なることを指している。

これでは会話が成立するはずもない。

そして、 「悟性」と「理性」の能力に隔たりが生じた結果、見えている世界が異なるという状態が起こるのは、偏差値がだいたい20くらい違ったあたりからなのである。

今回の話はここまで。最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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